2012年08月08日
マッハ級の無常
ふと自分が子どもの頃の生活を振り返ると、地域生活は人間と自然のせめぎ合いの場で、無常の移行帯なんだなと思う。
で、移行という考えの中、何が良くて何が悪いかという物差しも時代の変化とともに移行しているんだな〜とも。
私が子どもの頃の昭和40年代は竹細工や木製品が蔵の隅に追いやられ、安くて軽くて丈夫なプラスチック製品が大変喜ばれていました。今、プラスチックは悪玉のように扱われ、蔵に追いやられた竹細工や木製品が使い心地が良いと言われ見直されています。でも、悪玉であったはずのプラスチックは、再生されたリサイクル品として生まれ変わった途端に、素材として同じプラスチックであってもエコと呼ばれて立場は逆転します。
仏教の無常観にもあるように、生活様式の変化も受け入れるべき自然現象でありますが、今のような、速度の早さと失うものの多さまでは、さすがにお釈迦様の想像を超えているのではないでしょうか。
便利さはもちろんの事、人々の生活を自然災害から守るために「安全・安心」として移行することはとても大切です。移行は人間が成長しながら生きていくためには必要なことで、せんとあかん事もある。でも、せんでもいい事はしない、ある程度のところで止めておきましょう。
もうこんなもんで十分です。
で、移行という考えの中、何が良くて何が悪いかという物差しも時代の変化とともに移行しているんだな〜とも。
私が子どもの頃の昭和40年代は竹細工や木製品が蔵の隅に追いやられ、安くて軽くて丈夫なプラスチック製品が大変喜ばれていました。今、プラスチックは悪玉のように扱われ、蔵に追いやられた竹細工や木製品が使い心地が良いと言われ見直されています。でも、悪玉であったはずのプラスチックは、再生されたリサイクル品として生まれ変わった途端に、素材として同じプラスチックであってもエコと呼ばれて立場は逆転します。
仏教の無常観にもあるように、生活様式の変化も受け入れるべき自然現象でありますが、今のような、速度の早さと失うものの多さまでは、さすがにお釈迦様の想像を超えているのではないでしょうか。
便利さはもちろんの事、人々の生活を自然災害から守るために「安全・安心」として移行することはとても大切です。移行は人間が成長しながら生きていくためには必要なことで、せんとあかん事もある。でも、せんでもいい事はしない、ある程度のところで止めておきましょう。
もうこんなもんで十分です。
Posted by shirasaki at 10:01│Comments(0)
│その他